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INTERVIEWS WITH INVESTORS

(2016/1 取材)

「リョーマはイケてる」

長南 リョーマが株式会社となってから、事業の進め方に変化はありましたか。

加藤 マイライセンスの繁忙期は2〜3月と7〜8月だけなので、他にもいわゆるキャンパスプロモーションをやることにしました。我々の最大の強みは大学の中を縦横無尽にウロウロできることで、自社事業の運転免許合宿の宣伝以外にも、大学生向けのプロモーションができそうだと。色々な大学の掲示板に色々な企業の販促物をバンバン貼っていました。

投資家インタビュー Vol.10 エンジェル事業家 LENSMODE PTE, LTD.加藤順彦氏 「リョーマはイケてる」

長南 現在だとお咎めものですよね(笑)

加藤 当時も貼っちゃだめですよ本当は(笑)でも、大学の掲示板に訳の分からないポスターを貼られても、まぁいいか、みたいな大らかな時代だったので。実際、マイライセンスのポスターはどこの大学にも貼ってありました。

長南 真田さんって次から次へと色々なアイデアが出てくるんですね。ファーストペンギン的な感じですね(笑)

加藤 「ファーストエントリーが一番儲かるで!」と新入学生向けにサークルカタログをつくって、そこに広告を載せたりして。キャンパスプロモーションは結構な商売になっていましたね。ただ、実働部隊が、もう明らかに人手が足りないわけですよ。真田さんも西山さんも、二人とも次々と面白いアイデアを出してくるんです。

長南 そこで人数が足りなくなってきて、後のリョーマ軍団をリクルーティングするんですね。

加藤 はい。杉山さんも松本さんもそうですね。学生社員は、2年目以降はほとんど僕が「リョーマはイケてる」って口説いていました。当時の西山さんが「俺たちは全員社長を目指す」と言っていたので、「君もリョーマに入って将来の社長を目指せ」みたいな(笑)幼稚な口説き文句ですよね。

長南 リクルーティングの相手はどうやって探しましたか。

加藤 当時は携帯電話もインターネットもなくて、伝聞ですよ。どこそこの大学に企画力があって学生に非常に人気のある人がいるとか、テニスサークルを20個つくったカリスマ性のあるリーダーがいるとか。そういう噂を聞きつけたら、公衆電話で自宅に電話してアポを取るんです。「リョーマの加藤です、明日大学の校門で会ってくれませんか?」と。

長南 いきなり連絡して怪しまれなかったのですか。

加藤 そういう出たがり志向の若い人で、僕のことを知っていた人は結構いたかもしれませんね。新聞やNHKの『土曜倶楽部』、大阪の『アタック600』といったテレビ番組にも出ていたので。

長南 自分を有名にすることでリョーマも有名にして、人を集めたと。

加藤 最大で 15 人くらい、関西の大学生でした。給料はおろか、交通費すら出ませんでしたけれどね。

長南 本当に「リョーマはイケてる」というキャッチフレーズ一点だけでリクルーティングしたんですね。分かりやすくはありますね。

加藤 メチャクチャですよ。ただ、それがあったから、面白い人がたくさん集まったと思っています。

十字架をおろして、わくわくしたダイヤルキューネットワークへ

長南 小学校5年生の時に、「将来は親の会社を継がなくてはいけない」と十字架を背負った感じだったと思いますが、リョーマで事業の面白さを体験してから、その思いに変化はありましたか。

加藤 11歳の時にも割と向き合っていましたけれど、人生最大の懊悩っていうのは21〜22歳ですね。家業を継ぐか継がないか、一年間死ぬほど悩みました。今でも、あの時ほど悩んだことなんて一度もないです。

投資家インタビュー Vol.10 エンジェル事業家 LENSMODE PTE, LTD.加藤順彦氏 十字架をおろして、わくわくしたダイヤルキューネットワークへ

長南 ご実家の経営状態はどうだったのですか。

加藤 順調だったわけではないと思いますけれど、ちょうど僕が人生最大の懊悩を迎えた頃に、真田さんが玉置さん(玉置真理氏、株式会社ザッパラス 代表取締役会長兼社長)とダイヤルキューネットワークという会社を東京で始めまして。ダイヤルQ2を使った情報サービスで、要はインターネットの前近代版ですね。その仕事を手伝うために、僕も大阪から東京に頻繁に通っていた時期があるんです。リョーマは梁山泊を目指して108人の社長を生もうとしていた学生起業団体でしたけれど、ダイヤルキューネットワークは全く違ったんですね。「企業」としての成長が目標で、みかん箱の上の孫正義ではないですけれど、日本一を目指していたんですよ。

長南 そうすると、ダイヤルキューネットワークに学生で働いている人は少なかったのでしょうか。

加藤 その頃は全体で20〜30名の組織で、学生は5〜6名くらい。あとは社会人でした。ダイヤルキューネットワークに通うたびに、「これ面白そうだな。ひょっとしたら、この会社が世間を変えて、大変なことになるんじゃないか?」ってリョーマとは全然違う高揚を感じていました。結局西山さんも東京に行ってしまったので、その頃のリョーマはもう抜け殻みたいになっていましたしね。

長南 大阪と東京では、社会というか文化というか、あるいは空気なのか、カルチャーショックがあったということですか。

加藤 大きかったですね。僕は面白いと言われている関西中の学生に声をかけて、リョーマという会社のスタッフを集めていたんですよ。ところが、ダイヤルキューネットワークには日本中からメンバーが集まっていて、ダイヤルQ2に夢を見た海千山千がドバドバ来ているわけです。驚くと同時に、本当に失礼な話なんですけれど、親の商売の面白くなさに気づいてしまったんですね。「親の会社って実はつまらないんじゃないか?」みたいな。

長南 その時、家業はどのくらいの規模でしたか。

加藤 ピークからかなり落ちていましたけれど、30名くらいいたんじゃないでしょうか。それなりの規模ではありましたね。親の会社を継ぐか継がないか、親の期待に背くか否かというところは僕の人生最大の懊悩で、自分の運命と向き合わざるを得なくなった一年間、悩みに悩みました。

長南 とても厳しい決断ですよね、20歳にして。僕はできなかったですね(笑)

加藤 きつかったです。それで大学4年生の時、運命から逃げたんですよ。僕は合計5年間大学に行っているんですけれど、4年生の時に親が鋼材関係の会社に腰かけ内定を決めてきてですね。親は自分の描いた線路に僕を乗せて、将来は家業を継がせたい。当時は入社試験もなくて、たったの一回、5分面接しただけで内定が出ました。

長南 学生起業家だったからとか、売り手市場だったからとか、そういうところは関係なかったのでしょうか。

加藤 関係ないです。向こうも僕が親の子どもだと分かっていたので、腰かけってそういうことですよね。本当に悩んだのは内定が出てからでした。結局、わざと4単位だけ足らないようにして計画留年したんですよ。親は落胆するわ、内定先は怒るわ、申し訳ないことをしました。1990年の3月ですね。もしあのまま内定先に行っていたら、僕の人生は全く違うものになったと思いますけれど、結局ダイヤルキューネットワークに就職することを決めたんです。

長南 お父様には就職先を伝えましたか。

加藤 というより、親に出資してもらいました。ダイヤルキューネットワークに(笑)ほとんど泣き落としに近かったんですけれど、僕と真田さんと西山さんの三人で頭を下げて「出資をお願いします」と。親も僕がかわいくて、家業を継がずに東京に出て行くってそこまで言うなら・・・と500万円出資してくれました。要するに、手向け花ですよね。

長南 素晴らしい親御さんですね。その時ご両親に何か言われたりしましたか。

加藤 いやぁ、残念そうでしたね。もちろん親とは今も仲良いですけれど、この話になるといつも僕は親不孝だったと思うし、親の期待に完全に背いたという十字架を背負い続けているんです。しかも、僕がきっかけで、同じく大学生だった弟が商学部に転部して、家業を継ぐ覚悟をしてしまったんです。僕の所為で彼の人生まで変えてしまったんですね。それでも、当時は周りが見えないくらいダイヤルキューネットワークに夢中で、自分の運命にも抗ってしまったんです。

長南 それは、ダイヤルキューネットワークの方がどうしても興奮するというか、ワクワクしたからっていう感情ですか。

加藤 そうですね。僕はワクワクする方を選んでしまったんですよ。

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